研究所玄関 所長室 掲示板 川越学 芳名録 書状 リンク メール
川越市文化財保護協会機関紙「川越の文化財」より著者の許可を得て転載します。
文責は源五右衛門にあります。
ご意見・ご感想などお寄せいただければ幸いです(著者に伝えさせていただきます)。
霞ヶ関村が川越市へ合併したのが昭和三十四年四月である。
この「霞ヶ関」という地名は、いつ頃からどの様にして使われたのであろうか。
そもそも江戸時代には大・小様々な村が乱立していて明治政府も行政区画をどの様にしたらよいか一番頭を悩ましたものであった。
藩から県へ、戸籍法等明治初年から十年代へかけて様々な改革が行われた中で明治十七年に地方制度の改革があり、今迄の不統一だった村を一村五百戸を基準とする制度をとった。この地区では笠幡村・的場村・安比奈新田村・柏原村(現狭山市)の四村を合併して一村とする方法をとり新しい村名が考えられた。各村まちまちな考えの中から柏原地内の小字に「霞ヶ関」という所があり各村とも合意したので「霞ヶ関村」と決められた。
ところが、その後明治二十二年四月に町村制施行の見直しがなされ、当の柏原村が、地理的条件や民情の違い等の理由から離脱してしまったのであるが、残された三村は改名することなく現在に至っている。
◎「霞ヶ関」=地名の起因
新編武蔵国風土記稿に次のように書かれている。「柏原は往古信濃より鎌倉への往還にて今は信濃街道と唱う。此處に霞ヶ関と称する名所あり、その小坂の上に古え関所ありける由、古人の和歌二首口碑に伝わる
”春立つや霞ヶ関をけさ越えて
さても出でけん武蔵野の原”
”いたづらに名をのみとめて東路の
霞ヶ関も春そ暮れ行く”」
この場所は現在狭山市下広瀬地区に当り狭山市役所から入間川を渡り智光山公園に至る道路沿いにある。
(副会長 矢部 操)