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川越の歴史


 川越市は地質学的にいう武蔵野台地のもっとも東北端に位置を占め、入間川が西部から北部にかけて流れている。人間が生活するのによほど条件が良かったせいか、原始時代の縄文、弥生の住居址が多く、なかでも仙波台地や新河岸台地は密集地といえよう。大小の古墳や住居跡は小畔川流域、入間川流域、赤間川上流、仙波台地に多く、それぞれ下小坂古墳群、的場古墳群、南大塚古墳群、仙波古墳群を形成している。

 奈良、平安時代の文化は入間川の西岸地方にひらけた。若干の条理遺構も残っている。市内の的場地区周辺はいわゆる入間の郡三芳野の里とも言われ、「伊勢物語」にも登場してくる。平安時代末期から鎌倉時代にかけては武蔵武士が勃興し、やがて河越、山田、仙波、古尾谷の荘園の実権を握るようになった。

 とりわけ強大であったのが、秩父氏の流れをくむ河越氏で、河越太郎重頼は鎌倉幕府の御家人として重用された。やがてその娘は源頼朝の媒酌で義経の正妻となり、三男の重員は武蔵国総検校職に補せられるほどの実力をもってきた。その館跡は上戸地区の常楽寺を中心としている、南北に土塁の一部が現存している。また、仙波の中院は尊海僧正によって当時の天皇の勅願所となり、末寺580 と称する勢力をもっていた。

 「長禄元年(1457)に上杉持朝の命によって家臣の大田導真、道灌父子が川越城を築くとともに、川越の中心は入間川の東部の現在地に移った。上杉氏は6代、ついで北条氏が4代を数える。この上杉、北条の交替の時期に起こったのが有名な天文15年(1546)の川越夜戦である。北条綱成とその援軍である北条氏康8千が、上杉朝定、憲政と古河晴氏の連合軍8万を打ち破って快勝した。北条氏の末期頃から兵農分離による家臣団の城下集中が進み、初期の川越城下町が形成されてきた。

 天正18年(1590)徳川家康の関東入部にともない川越藩がおかれたが、川越は江戸城北辺の守りであり、また豊富な物資の供給地として重要だったため、幕府は親藩・譜代の有力な大名をここに配置した。八家21人の川越藩主のうち老中は酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知、秋元涼朝、松平康英の6人が数えられる。また、喜多院は慶長4年(1599)の天海の来住によって500石の御朱印寺となり、その後江戸城紅葉山の別殿を移し、境内に東照宮を造営するなど寺運が大いに栄えた。

 松平信綱は川越城下町の町割を行い、10か町4門前郷分の行政区画が定められた。さらに川越街道の整備、新河岸川の開削、野火止の新田開発などその実績にはみるべきものが多かった。柳沢吉保の時代には三富地方開拓の地割りが行われ、秋元喬知は殖産に力をそそぎ、川越織物発展の基礎をつくった。

 松平大和守は結城秀康を祖とする御家門の家柄で、領高も斉典の時代には最大の17万石である。7代100年にわたって城主をつとめた。「全国御城地繁花鑑」に前頭12位を占め、「小江戸」と呼ばれる繁栄をみせたのはこの頃である。この繁栄は新河岸川をとおして江戸に物資を輸送した城下町商業の発展に負うもので、毎月九斎の市が拓かれ、業種別の十組問屋が株仲間を組織していた。また10か町の総鎮守の氷川神社の祭礼には江戸の天下祭りをそのままに模した盛大な山車が町衆によって引き回された。松平大和守斉典は藩学「博喩堂」を創立して学問を奨励し、「川越版日本外史」を版行した。しかし、幕末になって異国船が渡来すると、川越藩は浦賀の警備に藩兵を派遣するなどようやく多端となり、松平康英のとき明治維新を迎え、明治4年に廃藩となった。

 明治になってからは城下町の伝統もあって、川越は埼玉県第一の商業都市として大いにその実力を発揮した。主たるものは穀物の集散で、織物、箪笥は特産物であった。明治26年には町の3分の1を焼失する大火にみまわれたが、直ちに土蔵造りの店舗を続々と建設し、今日見るような蔵造りの景観を形成していった。大正11年には他にさきがけて市制を施行し、昭和30年には隣接9か村を合併し一躍広大な市域となり今日に至っている。近年は交通も至便で道路も完備してきたので、工業団地、問屋団地、公市営の住宅団地も次々と建設され、県下でも有数の大都市に発展してきている。

(川越市教育委員会「川越の歴史」文化財シリーズbQより)


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