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「広報川越 No878・先人のあゆみ19」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
川越藩主松平大和守斉典(まつだいらやまとのかみなりつね)の家臣で、藩の郡奉行を勤めた安井政章。幼くして儒学を学ぶとともに、川越藩の公式流派である宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の師範として藩主にも指南したといいます。治水や開墾、植林など領内の発展に全力を傾け、活躍ぶりは領民からも慕われました。
安井政章は、天明(てんめい)七年(1787)十月、川越藩主松平大和守斉典の家臣渡辺玄郭(わたなべげんかく)の子として、川越で生まれました。成人して藩士安井久道(やすいひさみち)の養子となり、与左衛門(よざえもん)または珍平(ちんぺい)と称しました。その後、藩士の間でめきめき頭角を現し、郡奉行に昇進。二百石を与えられました。
藩主斉典の時代は、困窮する藩財政を再建するために多くの施策を打ち出しました。藩内には緊縮と倹約を勧め、藩の財政全般を御用商人である横田家に担当させました。しかし、横田家の勢いが衰えると商業資本への依存を改めて、農政改革に取り組みようになります。江戸時代の中期には、水田地帯の農村は貧困が著しく、離農が増加しました。そこで川越藩は養蚕、絹織物、唐桟織(とうざんおり)などを指導。しかし、村々の危機的生活を回復させることはできませんでいした。藩主斉典は、荒れ果てた水田地帯の農村を建て直すために治水事業に傾注。郡奉行の政章に土地の改良を託すことになります。
特に、比企郡川島領の堤防が決壊し、甚大な被害により領民が苦しんだとき、川島領を救助する任務に就いた政章は、工費二千五百両と延べ十七万人を使い、一大土木工事を敢行。弘化(こうか)二年(1845)に堤防を築き上げました。この長堤は鳥羽井堤(とばいづつみ)と呼ばれ、堤には桜を、低い場所には柳の木を植えました。ここは後に、川島領の桜の名所に数えられるようになります。このほか領内にある河川の治水管理や新田開発に努力。飢きんには、年貢の減免を認めるなど農民の救済に手を尽くしました。
また、川越藩の陣屋が置かれていた前橋(現在の群馬県前橋市)では、利根川をはじめとする諸河川のはんらんなどのため、領内の荒廃は目に余るものがありました。天保(てんぽう)二年(1831)、藩命により実態を調べた政章は水利改修に着手。その結果、九十七ヘクタールの水田を得ることができました。藩では政章に前橋領内の復興を任せることになります。その業績は、良田七百五十ヘクタールの復旧や利根川の流路改良、赤城山ろくの松苗の植林など。また飢きんの際には上司の反対を押し切り米蔵を開き、領民を救援しました。前橋領内の殖産に努めた見識と手腕は、目をみはるものがあります。前橋市大手町には、政章の仁徳をたたえる顕彰碑が建っています。
嘉永(かえい)六年(1853)六月十九日、常に領民の福利向上を念じてやまなかった政章は、病のため六十七歳の生涯を閉じました。墓(川越市指定史跡)は、栄林寺(末広町一丁目)にあります。
■「先人のあゆみ19」は、川越の人物誌(川越市教育委員会発行)、「城と町まちの歴史」(小泉功・齋藤貞夫著/聚海書林発行)を参考にして広報課でまとめたものです。