研究所玄関 所長室 掲示板 川越学 芳名録 書状 リンク メール


〜河越夜戦で城を防衛〜 北条綱成・ほうじょうつなしげ(1515〜1587)

「広報川越 No884・先人のあゆみ22」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。


 河越城は、上杉連合軍八万の兵に包囲されました。半年以上もの間、必死に城を防衛したのが、北条綱成。わずかな兵で救援に向かった北条氏康(うじやす)は、見事な奇襲攻撃で勝利を治めました。これが世にいう河越夜戦。

 綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成。甲斐の武田信虎(たけだのぶとら)との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えました。やがて、氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のりました。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、その軍勢とともに、日ごろ「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれました。

 河越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)、関東管領上杉持朝(うえすぎもちとも)が大田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)に命じて築城。以来、上杉朝定(うえすぎともさだ)まで六代八十年間にわたって上杉氏が支配してきました。武蔵に勢力をのばしてきた氏綱は、天文(てんぶん)六年(1537)、河越城を攻略。敗北した朝定は、松山城(東松山市)へ逃れました。河越城は、上杉氏とたいじする最前線の重要拠点。氏綱は、一族の常勝の将綱成を城代として守らせました。

 しかし、河越城奪還を願う朝定は、関東管領山内上杉憲政(のりまさ)・古河公方足利晴氏(あしかがはるうじ)と同盟を結び、天文十四年(1545)に八万の兵をもって河越城を包囲。この連合軍に対し、氏綱の死後家督を継いだ北条氏康は、同十五年(1546)に攻撃をかけ、世にいう河越夜戦が展開しました。

 二重にも三重にも城を取り巻く両上杉軍。ろう城する綱成は、三千人で必死に防衛。この時、駿河で今川氏と戦っていた氏康は、和ぼくし、兵八千を率いて河越城救援に向かいました。綱成以下将兵の釈放を条件に、城の明け渡しを申し入れ、一時府中に退くなど上杉方を油断させ、同年四月二十日、曇天の夜をついて反撃を開始。

 氏綱の軍は松明(たいまつ)を持たず、重い馬鎧(よろい)などを廃止し、敵の首を切り取ることをやめ切り捨てる作戦で臨み、夜半には上杉の本陣に突入。綱成以下の城兵三千人も、城門を開いて打って出て、東明寺(志多町)辺りを中心に激しい市街戦が行われました。不意をつかれた上杉方は敗走。行伝寺(末広町二)の過去帳には、「川越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙牛四月」とあることから、この合戦がいかに激しいものであったかがうかがえます。後に、東明寺境内からたくさんの人骨が掘り出されたといわれています。

 河越夜戦が終わると、城代であった綱成は、相模甘縄城に帰り、代わって大導寺政繁(だいどうじまさしげ)が赴任。氏康は、永禄十二年(1569)、相模の三増峠で武田信玄と戦い、綱成の軍は大活躍をし、敵に「黄八幡」と恐れられました。天正十五年(1587)に病没。時に七十三歳でした。

■「先人のあゆみ22」は、「川越の人物誌第一集」(川越市教育委員会発行)、「川越の歴史」(川越市発行)、「川越市史第二巻中世編」(川越市発行)を参考にして広報課でまとめたものです。


川越学人名録へもどる


研究所玄関 所長室 掲示板 川越学 芳名録 書状 リンク メール