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〜十七万石を支えた豪商〜 横田五郎兵衛・よこたごろうべえ(1834〜1892)

「広報川越 No888・先人のあゆみ24」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。


 江戸、大阪の米相場を左右するほどの力を持ち、関八州田舎分限角力番附(かんはっしゅういなかぶんげんすもうばんづけ)の筆頭にあげられた川越商人。小江戸と呼ばれ、隆盛を極めた十七万石の藩財政を支えた豪商が横田五郎兵衛です。

 横田五郎兵衛は、天保(てんぽう)五年(1834)、川越に生まれました、幼名は恵造(けいぞう)、成人して次郎吉(じろうきち)、のちに五郎兵衛を襲名しました。

 横田家は、享保(きょうほう)末年ころから地主として富を蓄積し、米穀、酒・しょう油製造業を営んでいました。十八世紀中ごろには、舟運と農村進出により、急速に活動を拡大。寛政(かんせい)三年(1791)には、川越藩の御用達を命ぜられ、身分は町年寄格となり、名字と帯刀を許されました。以後、知行も加増され、文政(ぶんせい)二年(1819)には、五百石の士分格に取り立てられるなどの厚遇を得ています。

 川越藩が最高石高十七万石であった松平大和守斉典(まつだいらやまとのかみなりつね)の時代に隆盛を極め、江戸を除く関東の豪商を載せている「関八州田舎分限角力番附」において東の横綱「横田次郎吉」として登場。江戸蔵前、大阪堂島の米相場を動かすほどの力を持っていたといわれ、川越藩財政の実権を手中にしていました。

 しかし、藩財政との関係が深まるにつれ、川越藩への調達資金は増大。藩主が京都に上洛(じょうらく)する折りに費用を献納したり、植林や治水にも努力したりするほか、川島領築堤工事費、黒船来航時の防衛費の一部負担なども行っています。

 このため、横田家が藩に支払った金額は数万両に及び、藩財政の窮乏とともに家運は傾きました。

 明治を迎えると川越町の戸長を務めた五郎兵衛は、入間県議会議員および第一回埼玉県議会議員に当選。明治五年(1872)には学制発布とともに志義学校(中央小学校の前身)の創設に努め、明治十一年(1878)には、国立第八十五銀行(現・あさひ銀行川越支店)の創設発起人(設立後は頭取)になるなど、政治・教育・経済の分野で活躍しています。

 慈善家五郎兵衛のエピソードとして次の話が伝えられています。あるとき、城下の橋が土でできていたため、人馬がケガをすることが多く、自費で石の橋を架けました。町の人たちは、その橋を「横田の石橋」と呼び、長く功績をたたえたといいます。また、江戸からの文人は横田家を訪ねたといわれ、「共穀(きょうこく)」という雅号でみずからも絵を描き、和歌をたしなむ、文雅の人でもありました。

 明治維新後、川越が商業都市に転換できたのは、江戸時代に培った商業の基礎があったからと考えらます。その基礎を築いた一人である横田五郎兵衛。豪商は、川越大火前年の明治二十五年(1892)に五十九歳で没しています。

■「先人のあゆみ24」は、川越の人物誌(川越市教育委員会発行)、川越市史(川越市)、川越夜話(岸伝平著)、川越の城下町(岡村一郎著)を参考にしました。


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