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「広報川越 No892・先人のあゆみ26」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
川越は明治から大正時代の間、県内最高の文化都市であり、西武蔵一帯の政治経済の中心地でした。その間におけるすぐれた指導者の一人として、第十代目綾部利右衛門がいました。
綾部利右衛門は、俗名を峯太郎、屋号を麻利と称します。代々利右衛門を踏襲し、その十代目にあたります。
綾部家は、元禄(げんろく)十三年(1700)に府川から喜多町に分家し、塩・油・肥料などの商いを開業。後には川越城主の御用達として活躍しました。宝暦(ほうれき)十四年(1764)の同家の記録によれば、当時すでに新河岸川の河岸場に出店し、江戸と川越の物資の交易にあたっていました。歴代の当主が江戸の文化を限りなく吸収し、全国の経済活動に明るかったのみならず、高度の文化的資産を持っていたことは、同家のばく大な蔵書によって知られます。利右衛門は、経済的文化的蓄積の中で先代ともども、家業のかたわら郷土川越の文化と経済の発展に尽力しました。
金融関係では、明治十一年(1878)、県内唯一の国立銀行である第八十五銀行の創立に参加。明治三十一年(1898)、株式会社八十五銀行に改称し、後に頭取として業務を統括しました。また、川越貯蓄銀行、飯能銀行の創立にも参加し、川越地方の商工業の近代的発展を推進しました。一方、経済界の指導的機関である川越商工会議所の設立にも参加し、明治三十六年(1903)からおよそ三十年間会頭の職にあたりました。
川越が繁栄を持続しえたのは、肥沃な西武蔵の中心であったのみならず、川越街道と平行する新河岸川の舟運によるものでした。しかし、文明開化により鉄道が乗客物資輸送の役割を担うことになり、経済関係の盛衰が問われる時代になったことをいち早く察知したのが利右衛門でした。明治三十五年(1902)川越−大宮間に馬車鉄道を敷設。明治三十六年、川越電灯株式会社を創立し、翌年川越に県下で三番目の電灯が輝いたばかりでなく、この電力により明治三十九年、川越−大宮間にチンチン電車(全国で四番目)が開通しました。新河岸川の夜船で東京へ行った住民は、汽車や電車で上京するようになり、昭和六年、二世紀半にわたった舟運は終わりました。
川越における文明開化の実践者として時代の旗頭であった利右衛門。しかし、政治に対しては、表向きの活動を避け続け、代弁者を支援して、間接的指導にあたっていました。しかし、明治末期から大正時代にかけて、旧勢力と大正デモクラシーとの対決によって、川越町政は混乱に混乱を重ね、人格識見ともにすぐれた利右衛門が、大正六年(1917)名誉川越町長に推挙されました。川越は大正十一年(1922)に仙波村と合併し県内で最初の市制を施行し、初代市長に就任しました。
昭和七年一月二日、明治・大正期における指導者であった第十代綾部利右衛門は七十二歳の生涯を閉じました。
■「先人のあゆみ26」は、「川越の人物誌・第一集」を参考に、広報課でまとめたものです。