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「広報川越 No894・先人のあゆみ27」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏、公方足利(あしかが)氏が勢力を争った時代は、室町幕府の体制が乱れはじめ、戦国時代に移行する過渡期でした。勢力の拡大と生き残りをかけた攻防戦が繰り返される情勢にあって、扇谷上杉持朝は、川越の大きな転換期の一つになる河越城を築き、初代河越城主になっています。
室町幕府は、関東を統括するため、鎌倉に公方を置きました。しかし、しだいに将軍への反発が目立つようになり、正長(しょうちょう)元年(1428)に将軍足利義持(あしかがよしとき)の後継を巡って鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)は反旗を翻しました。これをいさめた関東管領(公方の代官職)山内上杉憲実(やまのうちうえすぎのりざね)が持氏と対立。第六代将軍に就いた足利義教(あしかがよしのり)は、周辺守護に持氏討伐を命じ、「永享(えいきょう)の乱」が起こります。このとき、扇谷上杉持朝は憲実を支援。その後の結城氏朝(ゆうきうじとも)との合戦でも管領側に立って活躍し、相模国守護になりました。
持氏の死後、山内上杉氏の執事である長尾(ながお)氏と扇谷上杉氏の執事である太田(おおた)氏によって事態の収拾が図られますが、新たに鎌倉公方となった足利成氏(あしかがしげうじ)は、関東東北部の勢力を集めて上杉氏に対抗。享徳(きょうとく)三年(1454)に憲実の子である憲忠(のりただ)を討ち、成氏と両上杉を中心とした「享徳の大乱」が続きます。現在の府中市、立川市、日野市およびその周辺で合戦が行われ、持朝は子どもの顕房(あきふさ)を失っています。
両軍のし烈な争いの末、追われた成氏は古河に逃れ、古河公方を称することになり、持氏は東方に位置する古河公方に対するため河越、岩付、江戸に城を築きます。このとき、活躍したのが扇谷上杉氏の執事である太田道真(おおたどうしん)・道灌(どうかん)の父子です。「鎌倉大草子」には、長禄(ちょうろく)元年(1457)に上杉持朝が河越城、太田道真が岩付城、大田道灌が江戸城をそれぞれ築いたことが記されています。
持朝は、築城した河越城で隠居生活を送り、十年後に四十九歳で没しています。家督は持朝の孫にあたる政真(まさざね)が継ぎ、政真の没後、持朝の三男である定正(さだまさ)へと継がれました。河越城築城から定正までが川越における上杉氏の最も安定した時代ともいわれ、中世川越の文化の発展にも貢献しています。
それには、執事を務めた太田道灌の活躍が大きかったようです。しかし、道灌は、その優れた能力ゆえに定正に疑惑を持たれ、謀殺されてしまいます。これを機に両上杉氏は「長享(ちょうきょう)の大乱」といわれる激戦を繰り返します。定正以後、朝良(ともよし)、朝興(ともおき)、朝定(ともさだ)の三人が河越城主になりますが、しだいに関東における上杉氏の勢力は衰退します。
持朝が没した応仁(おうにん)元年(1467)には、将軍家の後継問題、管領家の家督争い、守護大名の勢力争いが絡み合い「応仁の乱」が起きています。京の混乱は、やがて全国に広がり、守護大名と戦国大名が勢力を争う時代になります。
関東は、新興勢力の後北条(ごほうじょう)氏が加わり、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による勢力争いが展開され、扇谷上杉氏は、河越夜戦により滅亡。川越は後北条氏の領地となり、河越城は小田原城の支城として新たな時代を迎えます。
一方、山内上杉氏は越後に落ち、相伝により務めてきた管領職は、執事の長尾氏に譲られ、長尾景虎(ながおかげとら)が上杉政虎(うえすぎまさとら)(謙信)として上杉氏を継ぎます。
■「先人のあゆみ27」は、川越市史・第二巻中世編(川越市)、川越の人物誌(川越市教育委員会)、ハンドブック川越の歴史(同)、日本の名族四(新人物往来社)を参考に広報課でまとめました。