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「広報川越 No898・先人のあゆみ29」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
現在、文中の里見<とん>の漢字表記ができません。ご了承ください。
大正から昭和初期の日本画会において独自の画風で腕を振るい、活躍した川越出身の画家、小村雪岱。美人画をはじめ版画、挿絵、さらに舞台美術や化粧品広告などで多才ぶりを発揮しました。
雪岱は、明治二十年(1887)三月二十二日、父繁門(しげかど)、母もんの長男として市内郭町に生まれました。本名は泰助(たいすけ)。明治二十五年、父が病没し、伯父小村万吉(まんきち)に養育されることになりましたが、同年、母が小村家を去り、雪岱は幼くして両親を失いました。
明治三十三年、坂戸高等小学校を卒業した雪岱は、翌年、神田神保町の叔母の家に寄宿。明治三十六年、十七歳のとき画家を志して荒木寛畝(あらきかんぽ)へ入門、画筆の道に進みました。翌年、東京美術学校日本画選科に入学、下村観山(しもむらかんざん)の指導の下、五年間の画学生生活を送ることになりました。
明治四十年秋、医学博士久保猪之吉(くぼいのすけ)の紹介で、耽美(たんび)的な小説に新境地を開いた泉鏡花(いずみきょうか)と知り合いました。鏡花の文学に傾倒していた雪岱は、鏡花の美的世界のとりことなりました。ちなみに、雪岱の雅号は鏡花から贈られたものです。
明治四十一年、同校を卒業し、美術雑誌国華社に入社、同誌の口絵を飾る古画の模写を担当。後年の彼の画風を確立する上に大きな力となりました。
明治四十三年に同社を退社。大正三年秋、初めて鏡花の小説「日本橋」の装丁を手がけ、木版多色刷りによる洗練された図柄が一部の注目を集めました。翌年、「鏡花選集」を装丁するなど、鏡花との仕事が多くなります。
大正七年から十二年までは、資生堂の化粧品広告を手がけました。この間、大正八年には鏡花の世話で田村八重(たむらやえ)と結婚しています。
翌年には時事新報連載の里見トン(さとみとん)作「多情仏心」の挿絵を担当、挿絵の世界にも独自の境地を開き、以後いくつかの仕事を通じて挿絵画家としての名を高めることになりました。昭和八年、朝日新聞連載の邦枝完二(くにえだかんじ)作「おせん」の挿絵は、初期鈴木春信(すずきはるのぶ)の画風を取り入れた繊細流麗な線描と質素な画面構成で多くの読者を魅了し、その評判を決定的なものにしました。
また、雪岱は、歌舞伎や舞踊の舞台装置にも才腕を振るい、十三代目守田勘弥(もりたかんや)の「忠直卿(ただなおきょう)行状記」をはじめ、市川左団次(いちかわさだんじ)、五世中村歌右衛門(なかむらうたえもん)など、当時一流の役者の舞台装置を担当。さらに、映画のセットや時代考証にも進出、昭和九年の新興キネマ映画「おせん」や同十三年東宝映画「藤十郎の恋」などを手がけています。
こうした仕事のかたわら、画人としての活動も怠りませんでした。昭和十年には新設の国画院同人となり、同十二年の同人作品展で「影向(えいこう)」等、同十四年には伊勢丹で田坂白雲(たさかはくうん)と「絵画と木彫美術展覧会」、高島屋における昭皐会(しょうこうかい)への「鎖骨菩薩」の出品などがあります。
昭和十五年十月十七日、東京麹町平河町の自宅で脳出血のため、五十四歳の生涯を閉じました。
■「先人のあゆみ29」は、「川越の人物誌・第一集」(川越市教育委員会)を参考に広報課でまとめました。