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「広報川越 No904・先人のあゆみ32」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。
川越藩の藩学「講学所」の教授として藩士教育に力を注いだ保岡嶺南。頼山陽(らいさんよう)著「日本外史」を校訂した「川越版日本外史」を発行し、全国各地に普及させました。
江戸時代中ごろから藩校と呼ばれる藩士のための教育機関を各藩で開設することが広まりました。川越藩が子弟の教育に力を入れるようになったのは、松平大和守の時代になってからのことで、好学の名君と呼ばれた松平斉典(なりつね)が藩校を開設しました。
川越藩は、文政(ぶんせい)四年(1821)に京都から中山竹山(なかやまちくざん)の門弟で長野友太郎(ながのともたろう)(豊山・ぶざん)という儒者を迎えましたが、病気がちで講釈を休む日が多く、その門弟の中から優秀な者を抜てきし、代行させることにしました。豊山が藩きっての英才として推挙したのが藩医保岡貞三の子、保岡英碩(えいせき)(後の嶺南)でした。家業の医師修行に専念していた英碩は、以来儒者としての道を歩みだすことになります。
師の長野豊山は、着任後二年足らずで病気を理由に川越を去り、江戸詰めとなったため、藩士の勉学の世話は嶺南が一手に引き受けることになりました。藩風引き締めと藩政振興を求め、学校設立を本格的に考えるようになりました。
文政八年ごろ江戸の上屋敷に江戸講学所を開設。川越では同十年七月、西大手門北側に講学所が開校され、嶺南は、講学所の教授となりました。規模は、私塾同然の小さなものであったといわれています。この講学所は、後に博喩堂(はくゆどう)と呼ばれましたが、藩日記等にその名は一切使用されていないことから、正規の名称ではなく、通称であったといわれています。
天保(てんぽう)六年(1835)、嶺南は江戸藩邸詰めとなり、尾藤多蔵(びとうたぞう)、坪井秀義(つぼいひでよし)などに学ぶとともに、江戸講学所で活躍しました。天保十五年(1844)に藩主斉典の命で、頼山陽著「日本外史」を校訂し出版。これが、藩校博喩堂版「校刻日本外史」二十二冊で、俗に「川越版日本外史」と呼ばれています。川越藩学の「日本外史」は、その内容が時代の要請に応えたこともあって飛ぶように売れ、版も十四版を重ね、偽版まで現れました。各地の藩校の蔵書目録には、「川越版日本外史」の名が見られるほどの普及ぶりでした。嶺南がこの書にかけた期待は、中国の歴史ばかりを重んじて日本の歴史を軽くみる学者や正統な日本の歴史を知らない士民に読んでもらうことでした。この書が世の中に広まると、嶺南の名は全国に知れ渡りました。
慶応(けいおう)二年(1866)、嶺南は随翁と号して江戸で塾を開きました。諸藩の武士が教えを請い、いつも塾にはたくさんの人が押しかけたと言われています。慶応四年(1866)、六月二十三日、六十八歳の生涯を閉じました。
「川越版日本外史」の版木は市立図書館に保存されています。
■「先人のあゆみ32」は、「川越の人物誌・第二集」(川越市教育委員会)を参考に広報課でまとめました。