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〜近世川越の基礎を築いた藩主〜 酒井忠勝」

〜近世川越の基礎を築いた藩主〜 酒井忠勝・さかいただかつ(1587〜1662)

「広報川越 No906・先人のあゆみ33」より転載。西暦はアラビア数字にかえています。


 近世川越の基礎を築いた藩主酒井忠勝は、将軍家光を補佐する大老として手腕を振るった指導者でした。

 酒井家は三河以来、松平家に仕え、同家と親密な関係にありました。川越城主になった酒井重忠(さかいしげただ)、その弟である酒井忠利(さかいただとし)、忠利の子忠勝は将軍の厚い信任を受け、忠勝は幕閣の要職である大老(川越藩主時代は老中)も務めました。

 徳川家光の時代になると忠勝は深谷城に入封して一万石を拝領、忍城に移封して五万石に加増され、父忠利の遺領三万石を継ぎ、寛永四年(1627)に川越城に移封し、八万石の城主になります。その後、寛永九年(1632)には二万石の加増があり、川越藩において十万石になりました。

 酒井家が川越城主を務めた時代は、天海が喜多院に住持したこともあり、将軍が鷹狩に訪れるなど江戸との関係も深く近世川越の基礎が築かれました。

 酒井忠勝の藩政としては、主な寺社の修理、復興に尽力し、特に喜多院、三芳野神社などを再建。そのほか五人組制度、未墾地の開発奨励、小農民自立などの政策が特に目立っています。

 また、忠勝は朝廷の理解者である好学家としても知られ、「関ヶ原始末記」「日本王代一覧」などの編さんを命じるほか和歌、連歌、茶道にも長じていました。

 明治二十六年に再建された現在の「時の鐘」には、「時の鐘」が寛永年間に讃岐守(さぬきのかみ・酒井忠勝)によって建てられたことが記されてあり、今なお川越市内の生活で忠勝の功績を知ることができます。

 川越城主を七年間務めた酒井忠勝は、寛永十一年(1634)に小浜十二万石の城主として若狭へ移ります。このとき、石原の観音寺のささら獅子舞の演技者を召し連れ、小浜城下に住まわせました。同獅子舞は、その地名にちなんで「雲浜獅子(うんぴんじし・福井県指定無形民俗文化財)」と呼ばれています。

 小浜に移った忠勝は、寛永十三年(1636)に天守閣を造り、小浜城を完成させます。そのとき、京都への最短距離の陸路となる小浜を目指して航行する船のことを考え、海から見て美しい城に仕上げるように命じたといわれます。

 小浜城は明治四年(1671)に焼失し、現在は石垣を残すのみですが、城址には藩祖酒井忠勝を祭る小浜神社があり、天然記念物の「九本ダモ」が十四代、二百三十八年にわたって、若狭を治めた酒井家の徳をしのばせています。

 酒井家の移封によって途絶えていた「石原の獅子舞(埼玉県指定無形民俗文化財)」は、その後復活し、武蔵野の代表的な獅子舞として毎年四月に行われます。また、こうした縁から、小浜市と川越市は昭和五十七年に姉妹都市提携を結び、さまざまな機会に交流が図られています。

■「先人のあゆみ33」は、「川越の人物誌・第一集、第二集」(川越市教育委員会)、「わかさ小浜の文化財」(小浜市教育委員会)を参考に広報課でまとめました。


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