- 広島・長崎原爆の遠距離被爆者と入市被爆者の急性放射線症状
(日本の科学者 Vol.34 N0.7 July l999)
- 田中煕巳・高橋 健
- 1 はじめに
- 長崎の被爆者松谷英子さんの原爆症認定をめぐつて,松谷さんの障害が原爆の放射線に起因するものかどうか,その立証責任が被害者側にどれくらいあるかについて,国(厚生省)との間で激しく争われている.長崎地方裁判所,さらに福岡高等裁判所で松谷さんは勝訴したが,国が最高裁判所に上告したため,提訴から10年目を迎えてなお最高裁の審判をまたねばならない状況にある1)。
原爆松谷裁判のもととなった「原爆症認定」制度は,厚生大臣が認定した疾病に対しては治療費のすべてを国費で行うものであり,旧原爆医療法 (1957制定)(現「原爆被爆者に対する援護に関する法律」)で制度化され,原爆被害に対する国家補償的側面の一つとみなされてきた.もともと,原爆被害をはじめとする市民の戦争被害に対する国家補償を認めない国は,他の戦争犠牲者と区別して原爆被爆者に対する対策を行うにあたり,放射線による被害を「特別の犠牲」とみなすこととした。放射線以外の被害は生命,身体に及ぶ被害についても「一般の犠牲」として一般戦災者と同様「受忍」すべきものとした。
したがって,原爆症の認定にあたる厚生省は放射線による疾病を厳しく限定してきた。特に被曝線量推定理論T65Dに検討が加えられDS86が報告されると,DS86にもとづく推定線量が機械的に適用されるようになって,認定申請に対する却下率が高くなってきている。2.4キロで被爆した松谷さんの障害も放射線の影響によるものでないとして認定申請が却下された。したがって,原爆松谷裁判は主として遠距離被爆の放射線の影響をどうみるかについて国と松谷さん側が争うこととなった。
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- 2 低線量放射線の影響
放射線の人体に及ぼす障害については,夜光塗料を扱った今世紀初頭の女子工員の障害など早くから知られていた2)。しかし,放射線の人体に及ぼす影響が広く注目されるようになったのは,原子爆弾の放出した放射線によって,大量の死者をともなう深刻な放射線障害が被爆者の多くに,生じたことに始まり,原子力の利用,放射線の医学的,工学的利用の普及にともなう作業従事者の放射線防護の必要からも重視されるようになった。
今日,放射線は基本的には生物にとって有害であるとされている3)。広島と長崎の被爆者の場合,1945年までに発症した障害を急性症状,翌年以降発症した障害を後障害とよんでいる。かつては,閥値と呼ばれる一定線量以上の被曝によって放射線障害が発症するとされていた。現在では,がんなどの晩発障害には闇値がなく,確率的にほぼ被曝線量に比例して発症することがわかっている。しかし,厚生省の被爆者医療審議会の被爆者認定基準は,なお閥値が存在するという立場を取りつづけている。
爆心近くで被爆し,大量の放射線を受けた広島,長崎の被爆者の多くがこの急性症状を発症し,死に至った。やや爆心から離れて被爆して死を免れたもの,その後さまざまな後障害に苦しめられた。原爆の放射線被曝を検討する場合は残留放射線の影響を見逃してはならない。遠距離被爆地や遠隔の他の市町村から,救援や復旧のために爆心近くに駆けつけた入市被爆者にも急性症状が発症し,死に至るものが現れた。
放射線物理学において,低線量放射線の影響については今日も確定的ではなく,研究が進められている。国連科学委員会が報告しているように 「低線量のリスクの評価は高線量で得られたデーターから外挿して推定する以外に方法がない」4)というのが現状であるとして,低線量によるリスク関係は直線関係が仮定されている。しかも,この高線量被曝の影響に関するデータは主に原爆被爆者から得られたものである。
原爆症の認定をめぐる原爆被害を被曝線量のみに矯小化することの誤りは論を俟たないが,国が 「特別の犠牲」とする放射線の影響の評価の根拠は,今日では,あくまでもDS86である。DS86は広島と長崎の原爆による放射線量を理論的に推定した放射線量推定体系であるが,このDS86の推定線量では,以下に述べるような遠距離被爆者に見られる急性症状の発症はとうてい説明できない。また,このDS86の遠距離における推定線量は最近得られた実測値と大きくずれることがわかり,現に日米両科学者による見直し作業が開始されている5)。
したがって,この理論から導かれる計算式から推定された線量を,機械的に被爆者の被曝線量として適用すること,遠距離被爆者や入市被爆者の被曝を単純に低線量被曝とみなすことの誤りは明らかである。国がDS86を金科玉条とすればするほど,地形などの差異,被爆時の複雑な環境の変化や残留放射線の影響を軽視することとなる。
3 被爆距離と急性症状に関する調査報告
原爆被爆者が受けた被曝線量と被爆距離との関係を示すものとして,これまで引用されてきたデータは1953年に日本学術振興会から刊行された 「原子爆弾災害調査報告集」6)と日米合同調査団による調査資料をもとに1956年にA.W.Oughtersonらにより編集・発行された「MEDICAL EFFECTS OF THE
ATOMIC BOMB IN JAPAN」7)によるものが多い。1979年に岩波書店より発行された「広島・長崎の原爆災害」8)に急性症状と被爆距離との関係を示す主要なデータが採録された。1951年にアメリカ原子力委員会があきらかにし,Oughtersonらが上記図書の編集に用いた「日米合同調査団報告−MEDICAL EFFECTS
OF ATOMIC BOMBS」はわれわれには容易に入手できるものでなかった。
1997年秋,長崎で開催された核戦争防止国際医師医学者の会(lPPNW)のアジア総会で,長崎大学医学部の朝長万左男教授が,公開されたマンハッタン計画合同調査団の秘密文書のなかに,遠距離被爆者に高率な急性症状発症者が見られることを報告し,これを長崎と広島の新聞がそれぞれ大きく報道した9)。これに対して広島の放射線影響研究所(放影研:旧ABCC)はインターネットのホームページ上で,放影研手持ちの寿命調査(対象者:広島59,500人,長崎28,132人)のデータから得られたグラフを示すと同時に,先の二つの調査報告書のデータにもとづくグラフを掲載して,これに反論する見解を発表した。それによると「マンハツタン調査団の調査対象は数が少なく偏りがある。他の調査結果でも遠距離被爆者に脱毛が現れているが,これはストレスなど別の要因による
と考える」としている10)。
最近,著者らが入手した日。同調査団による報告書によると,調査対象者は広島が6,882人,長崎が6,621人に及んでおり,遮蔽効果などの詳しい調査結果も報告されている11)。この中から放射線被曝による急性症状の典型とされている脱毛・皮下出血のいずれかを発現した被爆者の被爆距離と発現率との関係を,報告書の表68Hおよび表68Nにもとづいて作成したものを図1に示す。このグラフで長崎の近距離被爆者の脱毛症の発現率が低いのが注目されるが,この傾向は他の急性症状の発現率にも,また後述する日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)による調査にも同様にあらわれており,長崎の地形による自然の遮蔽効果によると考えられる。
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- このグラフで遮蔽物のない屋外被爆では,被爆距離2.1〜2.5 kmで,長崎では17.4%という高い発現
率がみられ,広島でも6.8%になっている.これらの発現率はそれぞれ遮蔽物の無い屋外で被爆した939人と2,071人を母数とする比率で示されている。先にのべた放影研のホームページに使用された日米合同調査団による被爆距離と脱毛症発現率との関係を示すグラフは,原報告書の表21Hおよび表21Nで,急性症状と被爆距離との関係について遮蔽状況別にそれぞれの発現率まで表記されている結果から,脱毛発現者について,遮蔽の差異を無視して総数を出し,これを同距離内の被爆者総数に対する比率としてグラフ化して示している。このため,放影研の示した脱毛の発現率はすべての距離にわたって低くなっている。例えば,長崎の被爆距離2.1〜2.5
kmにおける屋外あるいは日本家屋内被爆の場合,脱毛の発現率は7.2%であるのに対して,放影研グラフの値は6.1%になる。長崎の場合はコンクリート建造物,横穴防空壕やトンネル内での被爆者が多数あり,これらの被爆者を母集団に加えると,急性症状を発現した人の比率が低下することは明らかである。放影研に放射線の影響をできるだけ低く見せようとする作意があったのだろうか。
同様の意図を東大4,406人のデータとして示されているグラフからも感じ取ることができる。被爆直後,東京帝国大学医学部診療班によって行われた広島における調査は,脱毛については遮蔽効果についても詳しく調査されている12)。この調査結果をグラフ化して図 2 に示す.前述した放影研が示した東京大学のデータは遮蔽の効果を平均化したものであり、図 2で全体として示されているものである。「広島・長崎の原爆災害」に採録された表も遮蔽効果を平均化した急性症状の発現率として示されている。遮薮物のない屋外の直接被爆者は被爆距離2.1〜2.5
kmでも10%近い脱毛の発現が見られる。
4 爆心地帯への入域と残留放射線の影響
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- これまでに述べた被爆距離と急性症状の発症に関する調査報告では,調査対象者の被爆後の行動に関する調査が行われたかどうかは必ずしも明らかでない。残留放射線による障害があることは原爆投下後救援復旧等のため広島,長崎両市に入市した入市被爆者の中に多数の原爆症発症が見られ,急性症状により命を失ったものも少なくなかったことから,被爆者や被爆地の市民にはよく知られていたことであった。したがって,直爆者の被爆地が遠距離であっても,その後,爆心近くに入って救助活動や復旧活動を行った者は,爆発時の放射線に加えて,残留放射線を受けたことは間違いなく,受けた放射線量も,いつ,どこで,何時間行動したかによって異なっているに相違ない。
日本被団協は全国の被爆者の実態調査をl985年と1995年の2回にわたって実施し,被爆距離と急性症状の発症状況についての調査を行っている。しかし,1985年の調査は1万3千余の対象者であったが,直爆後の行動についての設問が欠落していたため,遠距離被爆者のその後の爆心地帯での被曝の影響を推定することができなかった。1995年の調査は対象が3,592人であるがこの調査においては直爆被爆者についても入市被爆者についても,14日以内の爆心地帯での行動について詳しい設問を施した。この調査で得られた,急性症状の典型とされる脱毛についての被爆距離と発症率との関係を図3に示す13)。
- この図において爆心より2.1 km以遠で被爆し,その後,2.1 km以内の地帯に出入りしたものがいかに高い脱毛発症率を示しているかがわかる。一方,2.1
km以遠の被爆者で,その後高い残留放射線がある地帯に入らなかったもののなかにも脱毛発症者がいることがわかる。日米合同調査報告においても,束京帝国大学調査結果においても,2.1
km以遠の被爆者で同率の脱毛発現者があるという事実は注目しなければならない。放射線の非確率的影響とされる急性症状発現に仮定される閥値が,広島,長崎で対応する被爆距離以遠での放射線障害の発現のゼロを意味すると解釈するならば閥値は原爆の放射線被曝の影響の事実を説明することにはならないことを明らかに示している。
残留放射線の影響を考慮した,周到な疫学的調査として,広島の於保医師による41年前の調査は特筆すべき優れた調査である14)。於保医師の調査がこれまで関係者にもほとんど知られていなかったことを不思議に思うとともに不明を恥じなければならない。於保医師の関心は残留放射線の影響を実証的に明確にすることにあった。
- 於保医師は広島市内の2 kmから7 kmの地域に生存している被爆者3,964人を対照にし被爆距離と屋内,屋外被爆,直爆後のl
km以内への出入の有無と急性症状発現との関係を詳しく調べた。また,629人の入市被爆者について,入市時期と急性症状発現の有無との関係を調査し,残留放射線による影響を統計的に示した。脱毛発現についての結果を図4に示す。このグラフから,屋外被爆の場合には2km以遠の被爆者で,その後,爆心地帯に出入りしていない被爆者の中にも10%近い脱毛発症者がいることがわかる。
5 むすび
i 被爆距離別被爆放射線の影響をみるとき,遮蔽の有無が極めて重要である.日米合同調査団や東京帝国大学医学部の調査報告の原資料を見直し,これらの調査においても,さまざまな遮蔽効果に注目した詳しい調査が行われたことがわかった。さらに於保医師による被爆状況に注目した調査とあわせ,屋外での被爆の場合,2km以遠の被爆者に脱毛に代表される急性放射線障害が発現していることがあらためて明らかとなった。
ii 遠距離被爆者でも被爆後の行動とくに爆心付近への出入りによって残留放射線により被曝したものも少なくない。遠距離被爆者に急性放射線症の発現があることは,遠距離被爆者に一律に放射線の影響がないとすることの危険性が明らかとなった。遠距離被爆者の原爆症認定の申請,審査において被爆者個々人の被爆後の行動にもとづき放射性降下物も含めた残留放射能の影響の有無などを慎重に調査することが必要である。
iii DS86の推定線量を,複雑な放射線環境下で被爆した原爆被爆者に単純に適用する原爆症認定基準は誤りである。残留放射線の影響はほとんど考慮されない。入市被爆者の認定に当たっての残留放射線の被曝線量査定基準も問題である。
iv 低線量放射線のリスク調査ががんによる死亡率調査として,原爆被爆者約8万人を対象として放影研によって戦後一貫して行われている,この追跡調査はすべての対象が死滅するまで行われることになっているといわれている。最近これらの調査のがんに関する報告が放影研より報告された15)。放影研のホームページに示された脱毛発現率と被爆距離の関係を示すグラフもこの調査の急性症状に関する部分と考えられる。これらの調査の具体的な内容が明らかでないので,遠距離被爆者や入市被爆者の被曝と疾病の関係をみることはできなかった。寿命調査について,調査結果の公開だけではなく、調査対象,調査内容などについても,速やかに公開されなければならない。
- 謝辞
入手がむずかしかった日米合同調査団の調査報告書を快く複写してくださった長崎大学医学部原爆後障害医療研究施設の三根真理子博士に感謝の意を表します。また,沢田昭二博士をはじめ,日本科学者会議低線量影響研究会のメンバー,日本被団協調査に当たり協力頂いた日本被団協の調査委員,各県役員,データの入力作業を行った事務局の方々に感謝の意を表します。
- 注
- 1)長崎原爆松谷訴訟資料集l―l2(長崎地裁判決,福岡高裁判決,最高裁への国の上告理由書を含む).
2)放射性物質の人体摂取障害の記録:松岡理,1995,日刊工業新聞社.
3)放射線 その線量,影響,リスク:国連環境計画(UNEP)編,吉澤康雄・草間朋子訳,l988,同文書院.
4)同上.
5)広島,長崎の放射線とDS86:沢田昭二・永田忍・安野愈,日本の科学者,1999.1.
6)原子爆弾災害調査報告書:日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編,日本学術振興会,
l953.
7)MEDICAL EFFECTS OF THE ATOMIC BOMB IN JAPAN:A.W,Oughterson et al.,McGraw‐Hill,
l956.
8)広島・長崎の原爆災害:資料編纂委員会,岩波書店,1979.
9)長崎新聞:1997/l1/24,中国新聞:1997/11/25.
10)http://www.rerf.or.jp/nihonngo/news/manhattan.htm
ll)MADICAL EFFECTS OF ATOMIC BOMBS: The Report of the Joint Commission
for the Investigation of the Effects of the Atomic Bomb in Japan, UNITED STATES ATOMIC ENERGY
COMMISSION,l951.
12)ibid 6).
l3)日本原水爆被害者団体協議会第1次調査報告.
l4)原爆残留放射能障碍の統計的観察:於保源作,日本医事新報,1746,(1957).
l5)Studies of the Mortality of Atomic Bomb Survivers. Report l2,Part
l,Cancer; l950‐l990: D.Apierce et a1.,RADIATION RESEARCH,l46,(1996).
- 田中煕巳:十文字学園女子短期大学・材料工学
高橋 健:山梨大学名誉教授・物理学
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