いままでの経過


1997年
●11月28日 
 午前7時45分頃自宅を出る。母親に最後の挨拶
 午前8時半頃小学校担任より大蔵病院に来るように電話。
 直ちに病院到着。霊安室へ行くように言われる。
 父親到着。警察官の説明で轢き逃げ死亡事故で犯人は逃走中で緊急配備をひいて捜査していると説明。
 遺体と対面中に警察官から犯人逮捕の連絡。
 大蔵病院の医師より死亡診断についての説明を受ける。
 成城警察より検死と司法解剖の説明を受ける。
●11月29日
 午後4時過ぎ、慶応病院で行われた司法解剖が終了。遺体確認をする。
 18時より20時頃まで通夜。
●11月30日
 11時半より13時半、まで告別式
●12月8日
 加害者保釈。(被害者家族知らず)
●12月18日
 不起訴処分(被害者家族知らず)
●12月29日
 成城警察に状況説明の日程を尋ねるが担当者不在で持ち越し。
●12月30日
 納骨

1998年
●1月8日
 成城警察において状況説明と事情聴取。加害者は轢いた事は認めるものの轢き逃げは否認しているとの事。しかし証拠は十分で証人の証言も信頼できるので立件起訴できると確信しているとの発言。
●1月13日
 加害者の会社の社長から電話。いままで連絡できない理由を説明するも直ちに成城署に確認を取り嘘だと解る内容。今まで加害者本人からの連絡、謝罪は一切無いため、加害者本人からの手紙を切望する旨伝える。
●1月18日
 加害者からの手紙届く。謝罪の意は感じられず。
●1月23日
 東京地検にて不起訴処分の話を聞く。当初6階交通部K検事担当で後任はA検事という説明で601交通部へ尋ねるが、ややあって2階事件課へ回され、Yという女性から不起訴処分ということ、説明する義務はないという事を聞く。成城署で聞いてきた内容と違うと抗議するものの平行線。
 検察審査会の申し立てのパンフレットのコピーと高等検察庁へ申し立てする方法を教えてもらうのみ。直ちに成城署に確認求めるが担当者不在。
 この晩から目撃者捜査開始。
●2月1日
 最初の目撃者の方と会う。事故の細かい状況、他の目撃証人、目撃したであろう車両の特徴を聞く。
●2月19日
 加害者初めて被害者の家を訪れる。轢いた事は認めるも気が付かなかったと主張。
本人同意のもとに録音テープに録音。
●2月28日
 弁護士がN検察官に面会。約30分間話を聞く。答える必要は無いという態度ながら、見えなかった事は無い、右側から横断中の事故、歩行者用信号は青信号であることには間違いないと認めるが被害者側の家族を呼んで説明や事情聴取をしなかった事についてはその義務はないとの見解。
●3月
 「隼ちゃん事件の会」発足。ミーティングを繰り返し、目撃証人を集めたり状況分析を行う作戦を練る。
●3月29日
 朝日新聞報道
●4月5日
 現場測量
●4月24日
 両親が検察審査会への申し立てを決めたことを毎日新聞報道
●5月3日
 署名活動開始
●5月10日
 「全国交通事故遺族の会」が総会で両親の支援を決める。
●5月11日
 JR町田駅で「交通事故から子供を守る会」が署名運動 
●5月13日
 検察審査会申し立て。署名22,000人分を提出
●5月15日
 法務省が全国の検察庁に交通事故遺族や被害者への処分内容通知の制度化を指示
●5月19日
 東京地検が「交通事件連絡室」を設置
●5月20日
 国会の法務委員会を傍聴
●5月28日
 地検へ17,000人分の署名を追加提出
●6月29日
 東京高検に地検への再捜査を指示するよう申し立て。署名10万人を超える
 審査会申し立てを終えて
●7月6日
 片山隼の母から亀井高等検察庁検事宛ての手紙
●7月中旬 
 東京地検が、高検の指示を受けて再捜査を開始
 新目撃者がすぐ現れる
●7月28日
 東京地検は処分の結果を知らせる「被害者等通知制度」を導入決定
●9月8日
 東京高検が東京地検の不起訴処分を取り消す。
 署名19万人を超える
●9月17日
 警察庁は原因究明が困難な死亡事故を取り扱う「事故捜査指導官」の設置を通達
●11月26日
 東京地検がトラックの運転手を業務上過失致死罪で在宅起訴
 ひき逃げについては不起訴のまま
●12月9日
 「交通事故を考える国会議員の会」発足
●12月21日
 初公判決定

1999年
●1月28日
 検察審議会からの議決書を受け取る
 検察審査会決議について
●2月15日
 東京地裁406法廷にて初公判
●2月17日
 衆議院予算委員会の分科会で事件が取り上げられる


この記事は4×4マガジン誌のまとめを参考にしています。